15世紀前半、チェコがオーストリアとハンガリーを中心に栄えたハプスブルク家の支配下に置かれると、チェコ民族にとっては、長い暗黒時代が始まった。19世紀後半、民族復権を求める動きが、国民劇場建設運動となって起こる。公用語がドイツ語だった当時、チェコ語の劇が上演できる劇場はほとんどなかったのである。
この民族復興運動のさなかに活躍した人の中に、スメタナやドヴォジャークなどの作曲家がいた。スメタナは最初貧しい音楽家であったが、「チェコ民族の音楽を作ろう」という生涯の目標を持っていた。しかし、スメタナの音楽はチェコの音楽界では中々受け入れられなかった。様々な苦労を経たあと、人々はスメタナの音楽の素晴らしさに気づき、“真の国民音楽の作り手”という名声を不動のものとしていったのだ。
そしてチェコの民族運動もさらなる盛り上がりをみせる中、地位と名誉を手に入れたのもつかの間、徐々にスメタナの聴覚は衰えていき、50歳にして音楽家の命と言うべき聴覚を失ってしまった。
しかし、そんな中でも彼の音楽に対する情熱は枯れることはなかった。1879年、有名な“我が祖国”の交響詩を完成させたのだ。作曲の間、スメタナの胸に去来したのは、耳が聞こえていた頃に訪れたヴルタヴァ川源流の深い森と、プラハ時代、毎日のように散歩した川辺の風景だったという。チェコの伝説と風景描写が見事に融合した“我が祖国”はスメタナ音楽の集大成と言える感動的な交響詩だ。
チェコの音楽史にとって欠かせない人物であるスメタナだが、あまり幸せな人生であったとはいえないだろう。彼は晩年、精神錯乱に悩まされており、1883年に国民劇場が再建された時(火事で一度焼失した)、スメタナはすでに正気ではなく、翌年の5月12日に精神病院で60歳の生涯を終えたのだ。3日後スメタナの亡骸は、葬送音楽と人々の嗚咽の中プラハの町を進み、ヴィシェフラド墓地に埋葬された。
スメタナの交響詩“我が祖国”は、チェコ音楽の象徴となり、スメタナの命日の5月12日から毎年プラハで催される『プラハの春音楽祭』では、開幕曲として、毎年演奏され続けている。
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